つまらない文章とおもしろい文章のちがい

つまらない文章とおもしろい文章のちがい

誰かに言われたのか、何かに書いてあったのか忘れましたが、「”私は”で始まる作文はつまらない」という言葉が脳に刻まれています。

これは、小学生のときの話です。

なので、私の作文には、私はで始まるものはない(はず)です。

国語の授業の作文も、夏休みの読書感想文も、文集も。
(じゃあ、おもしろい作文だったのかというと・・・です^^;)

 

ブログやメルマガを書くようになってからも、「”私は”で始まる作文(文章)はつまらない」がいつも頭にあります。

特にメルマガは、ついつい”私は”で始まる文章を書いてしまいそうになります。

そのたびに、あ、いけないいけないと。

 

ただ、ブログやメルマガを読む側になったとき、主観が入っていないと何を言いたいのかわからないので、発信者の”私の主張”は大事なんですよね。

そういう意味では、”私は”は大事です。

 

「おもしろい」と「つまらない」の境界線

“私は”で考えたとき、何がブログをおもしろくさせて、何がブログをつまらなくさせるのでしょうか?

  • もうワタシワタシはいいよ
  • またワタシの話?飽きた

→自分語りを聞くのはウンザリ

 

  • もっと話が聞きたい
  • このテーマはどう考えるのかな

→意見や考えに興味がある

 

自分を語りをしているのか?意見を伝えているのか?このちがいですね。

 

自分語りって、快感なんですよね。

話していても、書いていても、悦に入れます。

だから、意識しないとついついやってしまいます。

 

こんなにローコストで、個人でメディアが持てるなんて、「なんてすごい時代!」と思いますが、

「ブログ読んでます」
「あのブログおもしろかったです」

と言われると、有名人になったと勘違いもしてしまいます。

そうすると、ますます自分語りが加速します。

みんなが注目してくれてるって。

 

実際、そこまで、注目されていないのですが(笑)

そして、つまらない記事が積み重なっていきます。

悲惨ですね・・・

 

かまってちゃんは今日も語る

趣味ブログではなく仕事ブログの話ですが、自分の生い立ちにたくさんの記事を費やして、延々と語る人がいますが、私はそれはどうかなと思っています。(だいたいが苦労話)

“私は””私は”。

自己満足と自己主張が一緒になってしまってるのかな?

 

ただ、そういう見せ方もあることはありますね。

「こんなにどん底だった私が、今はこんなに幸せです」というストーリーで、マイナスからプラスを見せるやり方です。

「悲惨な過去を持った私でも幸せになれたから、あなたも幸せになる」手法ですね。

 

過去はどん底で悲惨なほど、今の幸せが引き立ちます。

なので、そこにたくさんの記事を費やすということもあるのかも。

 

これは偏見ですが(笑)、過去の自分の語りする人ほど、かまってちゃんかな、と。

 

「こんなに苦労したワタシに同情して」

「大変だったワタシを褒めて」

 

「今、幸せなワタシをうらやましがって」

「みんなに愛されているワタシを見て」

 

そう思うことがダメなわけではなく、仕事ブログでそれをやる??という疑問です。

自分語りはほどほどに、自分の意見を磨くことをしていきたいですね。

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